9月入学ブログを始めた理由 [論点がとても特殊だと思ったから]
そもそもなぜわざわざ慣れないブログみたいなものを始めたのかというと、この9月入学という論点は、他の数多ある政策論争とは一線を画する特殊性があると思ったから。
国民全員が「有識者」
教育という分野は、およそ全ての国民が何らかの形で経験している。不登校という形で物理的には学校空間に行ったことがなくても、登校を拒絶するという形で教育とやりあった経験があるわけ。だから、全ての国民が「実体験に基づいて自分の意見を述べることができる」。全ての意見がそれなりに地に足のついたものだし、程度の差こそあれ確かにそういう面はあるよね、と思わされるものが多い。
9月入学に限らず、教育に関する議論は有識者が大量発生するので調整がなかなか難しい。ただ、9月入学はこれだけにとどまらない。
巻き込まれる「当事者」たち
教育の話でありながら、(やるとなったとして小中高大どの過程を動かすのかはわからないが)教育に接続する領域は大きな影響を受ける。例えば義務教育が始まるまでの子育て世帯。あるいは教育課程が終わった学生を労働者として受け入れる産業界。完全な「当事者」である。その領域の意見も汲み取る必要がある。もはや国全体といっても過言ではない。
最も影響を受ける者が選挙権を持っていない
これが意外と重要だと思っている。結局、最後は政治判断になる。政治的な論点を考える上では、利害関係者がどの程度政治力を持っているかというのは常に頭に置いておく必要がある。前述した通り世の中の幅広い層が影響を受けるとはいえ、最も影響を受けるのは当然、学生である。
そして、当然のごとく、彼らの多くは選挙権を持っていない。
年金どうする、という話であれば、国会議員は日々支持者とのやり取りを通じて生の声が絶えず入ってくる(し、究極的には彼らの要望を実現することが票につながる)。ところが、およそ多くの国会議員は学生との接点が無い。もちろん一部の活動的な学生にアクセスしている議員は見受けられるが、かなりのサンプルバイアスがあると思われる。このような中、学生の声をどう拾い上げていくか、そして拾い上げられた(選挙権を持たない)声にどう応えていくか、というのは、有権者として学生の代わりにきちんとチェックしておく必要がある。
コロナ対応と合体してしまっており時間が無いし環境が特殊
このタイミングで何より重要なのはコロナである。コロナ対応の一つとして位置付けて論ずる人もおり、実際に政府も6月には方向性を出すと言っている。時間が無さすぎる。社会全体で考えなければならない論点であるにも関わらずである。
というように、多くの人々が短期間で結論を出さないといけない(ことになってしまっているのは変だという意見はめちゃくちゃあるが)論点に向き合わないといけない状態になってしまっていると感じる。
いやいや、何も変えなくていいから、という意見も多々あるが、なんせ政府が結構な勢いで検討を始めているので、現状維持なら現状維持でその機運を高めないといけない。
しかし逆に考えれば、9月入学について多くの人々がリアル・オンライン問わず色々な場所で議論し深めていくことができれば、政治家連中がよく言っている「国民的議論」とやらについて一つの成功体験を得られるのではないか、という気がする。
だから、このブログには「国民会議事務局」というタイトルをつけてみた。
とりあえず今思ってることを書いてみました。
色々な人の意見を眺めながら、今後、自分なりに論点整理をしていきたいと思う。